目黒家の歴史

 目黒家は戦国大名の会津蘆名あいづあしな氏に仕え、伊達政宗との戦の後、天正18年(1590年)越後魚沼うおぬま広瀬郷ひろせごうの地で帰農したと伝えられ、中世武士の系譜をひく豪農ごうのうです。
 目黒家の初代善右衛門は、江戸時代初期の慶長年間(1610年代)に上条郷かみじょうごう15ヶ村の肝煎きもいり役を勤めています。
 尾瀬に源をもつ只見ただみ川の上流で、寛永18年(1641年)銀山が発見されました。これに端を発した会津と越後の国境争論では、正保2年(1645年)2代彦兵衛は越後の代表として江戸に赴き、大老酒井忠勝ら幕府評定所の幕閣に早期裁断を訴える等大庄屋に並ぶ働きをしています。
 魚沼うおぬま地方が天領であった元禄年間(1690年代)目黒家は堀之内ほりのうち組のうち上条郷25ヶ村の庄屋の惣代、中庄屋になっています。
 魚沼領はたびたび凶作、飢饉に見舞われましたが、目黒家はその時々に救済策を行い、郷中の窮状を救っています。
 江戸時代中期の宝暦5年(1755年)糸魚川いといがわ藩領須原すはら村の庄屋であった8代五郎助は割元わりもと役を命ぜられました。
以後代々割元庄屋となり、苗字帯刀を許され、扶持を受け、近郷の割元庄屋とともに糸魚川藩魚沼領23ヶ村の大庄屋職を勤め、明治初年に至っています。
 目黒家の記録によれば、安永年間(1770年代)所持高140石余、造酒200石、奉公人20人を数えたと伝えられています。
 この地方も幕末の七品運上品替反対の一揆、会津(戊辰)戦争など激動の時代を経て近代を迎えました。15代徳松は明治13年(1880年)草創期の新潟県議会議員に選ばれ、国会開設の運動や政党結成に参加し、明治25年(1892年)には帝国議会の衆議院議員に選出されています。16代孝平も明治45年(1912年)衆議院議員に当選、大正政変期の中央政界で活躍しました。
 豪農目黒家の経営規模は大正9年(1920年)2郡6ヶ村に及び、農地165町歩、小作人総数325人でした。
 目黒氏は地方「近代化」の推進者として、産業や教育、文化の振興、道路の整備、鉄道の敷設、水力発電所の建設に尽力するなど、多くの功績をのこしました。

文化財指定の経緯

昭和30年2月9日 新潟県指定文化財の指定 主屋1棟(民俗資料)
昭和49年2月5日 重要文化財(国)指定 主屋、中藏、新蔵(建造物)、棟札2枚、古図1枚、
家作用具買入帳1冊
昭和53年5月31日 重要文化財(国)指定 宅地 4513.8 u
平成5年4月20日 重要文化財(国)指定 椽亭、棟札1枚、石動社、宅地及び原野10717.8u